8/31 辺見庸@四谷区民センター
嫁に同行するかたちで、
辺見庸さんの「死刑と新しいファシズム 戦後最大の危機に瀕して」という講演会に参加。
寒すぎる会場と、体調の優れない嫁の都合で、後半はロビーにて拝聴。
約38年間、獄中にいる確定死刑囚にして俳人の大道寺将司さんとの文通のやりとりにおいて、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%81%93%E5%AF%BA%E5%B0%86%E5%8F%B8
はじめて、”ぬりつぶし”に遭ったことが、この講演会の、ことの発端になっているようだ。
この講演会から、死刑の是非、について、特に心を動かされることはなかった。
ただ、死刑囚は死刑囚であり人間ではない、という国の扱いがどうなんだろう、
という話については、いろいろ考えさせられることがあった。
死刑囚は死刑囚だから、エアコンがない部屋で熱中症になってもしょうがないし、
外部とのやりとりについても、いろいろと制限があってもしょうがない、というのが、
制度として、倫理的に、問題がないということを言い切るためのロジックはいくらでもあるだろう。
国民の平和のため、という大義名分を振りかざせば、いくらでも、ね。
ただ、それは1億人を超える国民を抱える大きな国の、最大公約数となる平和のための制度であって、
実際にそこに直接的に関わる人間の事情を、”肉感的に”考えた場合は、同じ結論には至らない、という話。
話はガラっと変わるけど、先日ニューヨークに行って、一番感じたのは、その”ユルさ”。
もちろん、その”ユルさ”の裏には、警察や軍隊による治安統治があってこそなんだと思うけど、
電車の中で、バリバリ音漏れしてても、誰も怒らない。
電車の中で、ラジカセは禁止だけど、イヤホンからの音漏れは特に注意書きもなかった。
つまりなんというか、日本人は、規制できる大義名分があることに関しては、
なんでもかんでも規制の対象にして、それが国民を守る正義であると言い切る。
で、かつ、恐ろしいのは、なんでもかんでも規制されて、その規制だらけの中で生きていく事に
日本人が慣れてしまっていて、その不自由さの中で生きることに心地よさを覚えているのだ。
1億人を超える国民のひとりとして生きていく中で、
政治や経済や法改正を、肉感的に感じられる人間は、ものすごい少数派となり、
死刑も戦争ももうとっくに、どこか遠くで起きてる、リアリティのない話になってしまったのだ。
前に習えで育ってきた小中高の教育環境もそうだし、
テレビという100%受動的なメディアに50年以上慣れ親しんだ結果なので、
もうこれはいかんともしがたいし、ここまで環境を整えた国家の勝利としか言いようがない。
Twitterがいくら発達したとはいえ、BUZZる情報のソースの9割以上はテレビ。
「選挙フェス」がいくら盛り上がっても、そんなこと見たことも聴いたこともないひとが大半だし、
結局、当選を果たしたのが山本太郎だったというのも、テレビの力の有無を物語っている。
肉感的。
この単語が、今後、テレビ厨とネット厨だらけの日本において、
とても大事なキーワードになる気がした。
国民全体を統治することの正義は、いつまで、ひとの”肉感的””直感的”な危機感を抑えていけるだろうか。
実際に原発の影響で知人が亡くなったり、戦争で虐殺された日本兵を目の当たりにするまで、
国民は、”肉感”を得られないのだろうか。
悲しいけど、そんな気がする。
経済的にも力なく、テレビ局ともコネがない国民は、
ただひたすらに、無力な発言を繰り返すしかないんだ。
だから、こんなブログを書いてみました。
放射能で死ぬのも、中国とか韓国とかシリアと戦争するのも、絶対いやです(肉感的に)